何故人は単独登山を求めるのか、ふと、その魅力を考えてみた。



ここ最近、朝起きてからまずコーヒーを淹れることがルーチン化してきた。でもだからと言って僕はコーヒーが無いと動けないタイプの人間ではない。アルコール類についても、僕は数年前までは毎晩ビールの晩酌を欠かず、アル中を疑うレベルだったのに、今は全く飲まなくても平気だ。音楽もそうだ。もともとあまり聴かないし、聴かなくても生きていける。Twitterやスマホだって使えない状況になればなったで、その存在を忘れることができる。

でも、最近やっとわかってきたことがある。山に入っている時間、それだけは無いと死ぬかもしれない。週イチなんて言わない、月イチじゃなくても、ワンシーズンに1回でも構わない。年に数回山に入る時間が無いと発狂するかもしれない。まさに、No mountain, no life. 

これほど山に惹かれる理由はなんだろう。最近は特に一人で山に入ることが多くなった。いわゆる、単独行だ。警察や山岳救助隊は「単独行は絶対やめて下さい」と言うが、対照的に登山雑誌などのメディアは単独行を盛り上げている。時代の流れは単独行。単独で行くからこその面白みがあるのは事実だ。

この山に入らないといてもたってもいられないという気持ちは、単独行を求める気持ちなのかもしれない。では単独行の魅力とは一体何であろうか?

サバイバル登山家の服部文祥氏が、著書『サバイバル!−人はズルなしで生きられるのか』(2008年・筑摩書房)のなかでこう述べている
「山頂からの景色」は登山の目的ではない。(中略)登山の野心が求める景色とはそういうものではないからだ。それは一つひとつを積み上げてきた自分にしか見ることのできない一期一会の情景である。われわれ登山者は自分にしか見られない風景、自分にしか本当の意味を感じられない風景の中に入り込み、そこに存在しながら活動する瞬間を求めている。
つまり、登山者は自分でしかその景色の本当の価値を理解できないシチュエーションが好きなのだ。これこそが単独行の魅力の本質かもしれない。



一人で登っていると、特にバリエーションルートともなると、登山口でも、山頂でも誰にも会わないことが割と普通にある。そうなってくると、もはや自分がどこにいるのか自分しか知らないわけだ。これは服部文祥氏も述べていたが、氏のようなサバイバル登山というほどのものでもなくても、そういった感覚は味わえる。もちろん、家族や警察に届け出は出してルートは伝えている。それでも現時点での正確な場所は自分とGPSしか知らない…という状況。

山を登らない人から見れば遭難ギリギリのような危険な状況だが、僕の場合、これが非常にゾクゾクして楽しく思える。

何故だろうか。それは特別な、オンリーワンのような存在になれたような気分にさせるからだ。人間誰しもナンバーワンやオンリーワンになりたいと願うものだ。ナンバーワンの場合、他人と競い合う以上、どうしてもトップに立てる人は限られてくる。しかし、オンリーワンは違う。一番でなくてもいいのだ。

とはいえ、オンリーワンも簡単なことではない。ファッションでいかに限定品で身を包もうとも、世界を見渡せば同じような人間はゴマンといるだろう。でも山ではオンリーワンになれる可能性がある。

たとえば単独で山に入り、今現時点でここにいるのは自分だけという感覚はまさにオンリーワンになれたかのように錯覚する。世界にただひとつだけの山頂、そしてそこに今立っているのも自分だけ…。なにせ自分のほかに誰もいないのだから、誰かに承認してもらわなくても客観的に見てオンリーワンの状況だ。その状況自体に喜びを感じるのかもしれない。

だがこの遊びは諸刃の剣で、常に遭難のリスクを孕んでいる。単独で、誰もやっていないことをどんどん求めていると、いつか遭難する。そうやって遭難した人間は決してオンリーワンではなく、沢山いる。ニュースで今までの登山史のなかに億千といるであろう、イチ遭難死者として取り上げられて終わるのみである。

自分の力量にあった山で、自分にしか本当の意味を感じられない風景を見ながらオンリーワンをそっと噛みしめ、にとどめたい。



おわり
2020年1月31日

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