この文章はほとんど僕の仮説であり、ソースは主に我が家の体験であることを予め断っておく。

それでも、これは限りなく真理だと思っている。

育児中の山男のみならず、育児の初期段階に直面している全ての若い夫婦に伝えたい。



男と女が違うことを認めよ

今の世の中、イクメンだの、協力的な夫だの話題に上がることが多いが、このような男性の行動は生物学上のヒトとして本当に正しいものなのだろうか?

ここ一年半、僕は育児に「協力」してきたつもりではあったが、どんな男であれ、育児中の妻との衝突は避けられないのでは?という疑問を抱くようになった。(そもそも「協力」という表現がおかしいわけだが…)頻繁に衝突しているわけではないが、それでも衝突するときは間接的、直接的に登山が絡んだ時が多かった。そのなかにはこちらから見て、些細なことに思えたこともあったのは事実だ。

男が育児以外のことに夢中になること、それが問題なのだろうか?であれば女性だって育児以外のことに夢中になるはずだし、気持ちはわかるのではないだろうか?そう考えたこともある。しかし女性からすれば、「好きなものがあるのはわかるが、育児があるのに、今することなの?」ということになるらしい。どうも、男から見た「育児」と女から見た「育児」は同じものを見ているようで、全く別の風景として映っているらしい。



チンパンジーから学べること

妻と夫の育児を巡る意見の食い違いの原因を説明するなかで、まず僕はチンパンジーの話をしたい。

チンパンジーはヒトと遺伝子のゲノムが1.2%しか違わず、チンパンジーとニホンザルより、チンパンジーとヒトの方がずっと近縁だというから驚きだ。チンパンジーはヒト科なのだ。

チンパンジーは凶暴な性格でも知られる。これは人間でも同じことが言える。今でこそ世界は比較的平和だが、人類の歴史は戦争の歴史だ。群れ同士で歪み合うヒト科はチンパンジーとヒトしかいない。他のヒト科のボノボやゴリラ、オランウータンは争いは好まない。

チンパンジーのオスは序列を重んじ、その地位に固執する。彼らのオスたちの生きる目的は生殖と地位の確立のみと言っても過言ではない。僕はチンパンジーのことを知れば知るほど、チンパンジー社会はまさに人間社会そのもののような気がしてきた。

チンパンジーのメスはオスのグループを中心とする群れに属するが、基本的に子どもと暮らし、遊動する。チンパンジーのオスは当然子育てをしないし、多数のメスと交尾をするのでどの子どもが自分の子かもわからない。つまりメスはみんなシングルマザーで、シングルマザーの集まりで育児をしているのだ。当たり前のことだが、オスには全く母性本能が無いからこのような結果になる。



オスは育児の初期段階に不必要!

ヒトはどうだろうか。現代でこそ、男性の育児参加の必要性が声高らかに叫ばれているが、これはチンパンジーの群れを例に考えるととても違和感のあることだということがわかる。

ヒトは一夫一妻制をとっているように見えるが、それは社会的にそうなっているだけで、文化背景によっては一夫多妻制の国もある。むしろ原始のヒトは一夫多妻制だったのではないだろうか。つまり繁殖行動においてヒトはチンパンジーに近い。

チンパンジー同様に一夫多妻が可能ということは、同じ時期に何人もの自分の子供を持つことが可能ということになる。それは必ずしも自分の子供に対し一対一で向き合う必要性が無いことを意味する。

それに対して、母親は妊娠したときから十月十日、腹の中の我が子と向き合い、行動は大きく制限される。子を産むのも命がけであり、その後も命をかけて唯一無二のわが子を育てることが宿命づけられている。これはどの哺乳類にも例外は無い。しかしながら、そんな母親の宿命とは違い、その間に父親である男は他の女といくらでも子を作ることができるのだ。つまり、育児の初期段階では、ヒトのオスは生殖の最初の交尾においてしか役に立たたない。その後は乳幼児育児において本来は役割が全く存在せず、父性も発揮されない。



オスの本来の役割は群れの防衛

では交尾以外のオスの役割、存在意義はなんだろうか。チンパンジーの場合、群れを外敵や他の群れから守ることだ。人間も同じことが言える。

数十年前まではチンパンジーに近い環境下でヒトは生きてきた。家族という血族の集団である。祖父母がいて、その子供兄弟、その子ら、つまり孫がいるような環境だ。自然と男たち女たちで役割分担がされ、女は育児や家庭内の平和を守り、男は外敵からの防衛に努めた。

ここでオスの父親としての役割が子育ての中にあるのならば、それは戦士の育成である。同じオスの子どもが年頃になると意識的か無意識か関係なく、「自分のようになれ」と促し、子も意識的、または無意識に父親を目指すようになる。

ところが時代が移り変わり、だんだんと平和な世になってきてから、男の役割に変化が生まれ始めた。戦闘をしなくなった男たちは仕事の場に争いを求めた。男は家族集団の外で地位を確立したり、マウントを取り合うようになった。すると我が子を鍛えるという役割すらうやむやになってきた。

それでも大家族であったり、自営業であれば、男たちは外、女たちは内のことをやるという役割分担があり、原始生活に近い形が近年まで継続できていたと思う。

ところがこの50年ほどで家庭の形は人類史上初の変化を遂げた。



ヒトの自己飼育化による弊害

現代人はこの50年ほどでヒトとしての野性に近い環境(=集団生活)を捨て、自ら人工的な飼育下(=核家族化)に入ることを推進してきた。結果、家には1組の夫婦と子どもしかいないというケースが増え、自営業は減り、サラリーマンが増えた。

この世帯の核家族化で一番打撃を受けたのは、そう、子育てである。

ヒトの赤ん坊も複数の大人(女性)に育てられるという前提で発達する。生まれたてのヒトの赤ん坊は、チンパンジーや他の猿のように自力で母親にしがみつくことは出来ないが、その分泣き声で人を呼んだり、愛想を振りまいて周りの人達に世話をしてもらえるようにアピールできるようになっている。これは、生物としてそういう風になっているのだ。

これは余談であり、仮説だが、男性は老人のほうが若い人より育児志向が強くなるのではないだろうか。現代おいて孫に対して甘い祖父がいるのが例だ。これは狩りから引退したオスの役割の一端と言える。ヒトの血族集団ではオスは老年を迎えてから育児の役割が生まれるのかもしれない。



家庭内での育児共同体の欠如

男は「出産後に妻の性格が変わった!」と主張することがある。これはある意味正しい。

女は結婚や妊娠前、男を自分の外の存在とみなしている。どういうプロセスで恋に落ちるかはここでは問題でないので割愛する。問題は出産後だ。出産後、女性は周りの人間に育児の補助を求める。なぜなら前述のようにヒトの赤ん坊は母親一人ではなく、群れの中で集団育児をするようになっているからだ。

ところが核家族では周りに夫しかいないため、夫を自分側の存在、つまり女性同士の育児共同体の一員のように見るようになってしまう。出産直後は女性は生殖不可なので、夫を男としては見れないという理由もあるだろう。

そうやって夫を初めて見た妻は、夫の行動が不可解なことに気づき、理解できなくなる。なぜなら夫は母性本能に基づいて行動せず、育児共同体の一員としては不完全だからだ。夫としては子が生まれる前から変わっていないので、何が悪いのかわからない。突然妻の性格が変わってしまった!と思うだけである。



男の役割の形骸化

核家族だからこそ、男が女に寄り添って育児に参加すればよかろう、というのは一見すると自然な流れだが、実はとても不自然な考えだということを認識しなければならない。

平和な世の中になり、オス本来の群れの防衛や、対外活動といった主な役割はなくなり、血族集団生活もやめてしまうと、核家族は育児共同体としてのみ機能する。ところがオスに母性本能は備わっていない。夫は核家族内ではニート状態だ。

男はそんな環境下にあってもなんとか自分の役割を模索し、家庭外の世界に自分の地位(=社会的地位)を求める。これを「自己実現の欲求」と呼べば聞こえが良いが、単に社会(=群れ)で有利になるための「社会的ステータス」を獲得するための行動でもある。

現代ではさらに価値観が多様化しているので、必ずしも経済的豊かさのみが「男のステータス」とは限らない。共通して言えることは、ヒトのオスは他のオスと差別化された「他者に認められる存在」になることを切に願っている。これに夢中になると男は家庭(育児)を顧みなくなる



育児中の女性の自己実現は母性本能に基づく

男性からしたら「女性だってやりたいことあるよね?やればいいじゃん」と思うだろう。この発想がさらに男女で溝を生むことを説明したい。

女性も「自己実現欲求」を持っている。そのなかで社会的地位を確立したいと思うこともあるだろう。しかし女性の場合、育児を経験すると、実現したい自己の中に「母親」というベースが生まれる。これは母性本能の仕業である。アイデンティティの柱として圧倒的に母親であることが存在している。たとえ企業のトップに立とうと、国会議員になろうと、母親である前提からブレた存在になろうと思わないのが普通だ。

しかし男性の場合、独身時代であろうが、子どもをもうけたあとだろうが、自分自身がなりたいものになろうとする。自分ありきで考える。結婚して子どもができたとき、男は自分が積み上げてきた姿を将来子供にも目指して欲しいと思うが、女は今、子供のために何ができるのかを考えて自分がどう生きていくかを決める。なぜなら男には母性本能がないからだ。

つまり、男と女の考え方の違いを端的に言うと、男は自分を中心とした未来のことを考えて行動をする。対して女は子どもを中心とした今現在を起こっている出来事を考えて行動する。同じ社会で男女共に活躍していても、母性本能の有無によって「自己実現の在り方」の根本が全く異なることを強調しておきたい。



男と女とでは家庭内で向いている方向が違う

これまで述べてきたことから、ヒトの夫婦間における育児方針のすれ違いについて、容易に説明できる。

妻は母性本能があるが故に、目の前の子どもに起きていることはどんな些細なことでも直ちに対応するように脳内指令が出る。このとき妻は今現在進行形で起きている育児上の問題を同じ育児共同体である(と思い込んでいる)夫と共有したいと考えているが、母性本能が無い夫は知識と経験でしかその問題を考えることが出来ない。知識と経験で未来を予測した結果、問題ないと判断してしまう。現在進行形で脳内指令が出ている妻はそんな夫を理解できるわけがない。

そして妻にとってさらに最悪なことに、夫は育児を大ごとと捉えないで、自己実現に夢中となる女と違い、育児によって求める自己の在り方が変化しない男は相変わらず自分のために生きようとし、やりたいことをやろうとする習性がある。それを見た妻は「こっちは育児で大変なのに男は身勝手だ」と言うだろう。その通りだ。夫と妻で目指す自己のビジョンが全く違うのだから。

この歪な環境により、ワンオペ育児をはじめとする人類史上初めて育児上の様々な問題が顕在化した。ヒトとしての男女の役割の無視、集団生活の放棄、これは飼育下の動物が野生と同じように育たない現象に似ている。




登山はオスの目指す自己のひとつ

なんでこんなことを長々と書いたかというと、男が目指す「自己」を実現する手段として登山に没頭する例も存在するはずだからだ。これは一見すると子孫繁栄や社会的地位の向上に繋がらないように思えるが、登山こそがアイデンティティの人間となると、山に登ってこそ自分は価値があると本気で信じている。例えるなら、かの有名な山岳小説『神々の山嶺』に登場する羽生はまさにその精神の極めたキャラクターだ。彼は仮に子どもがいても絶対に子育てに参加しないだろうし、彼に憧れを持つ男も、その可能性がある。

登山がアイデンティティというほどでもなくても、山に登ることのできる男=特別なことができる男となり、他の男との差別化を無意識にしている可能性もある。

これらは登山に限った話ではない。本来は子孫の繁栄のための社会的地位獲得行動ではあるが、モノや価値観が溢れた現代のヒトでは手段が目的となってしまってしまう場合がある。仕事に没頭して家庭を顧みない夫の心理状態も、登山に没頭して家庭を顧みたい夫のそれも同じようなもので、自己の地位を広い社会の中で確立させることに無我夢中なりがちだ。



妻も登山好きの場合は?

妻のほうも元々登山好きで、子育てによって山に行けない…なんていうこともあるだろう。山男も「登山好きな妻なら自分に理解をしてくれるだろう」と思うかもしれない。しかし事態はそう単純ではないと言っておこう。

育児中の夫は妻の許可さえ出れば山に行くことができ、ひとたび山に行けば子どものことを忘れて山を心から楽しむことができる生物だ。しかし育児中の妻はいくら夫や家族に子供を預けて山に来ても、子供のことが気になってしまう生き物だ

一時的な開放感はあるかもしれないが、心の根底には逃れられない母性本能に感情が支配されている。そして、子供のことを忘れて山を楽しむことができる夫の性質をズルいと感じてしまい、それがまた軋轢を生む。



男には母性本能はなく、あるのは理性

こうした男女の溝を埋めるものがあるとしたら、それは男の理性かもしれない。何度でも言うが、男に母性本能はない。というか哺乳類のオスに母性本能はない。ライオンのメスは捕食対象の草食動物の子どもにさえ強い母性を示すことがあるそうだ。考えるまでもないがオスのライオンでは有り得ない。多かれ少なかれヒトも同じだ。

もちろん多くの父親は子どもを守りたい、愛したいという気持ちが自然と湧くことだろう。しかしそれは母性本能ではない。母性本能はただ可愛がるだけでは断じてない。身を犠牲にしてまで子の世話を見るという圧倒的な意志だ。守りたいという気持ちに嘘偽りはないが、それは群を守ること、子孫を守ることであり、オムツ替えをするかしないかはまた別の問題、つまり理性がはたらくかどうかなのだ。

男は最初から母性を持ち合わせてないのにかかわらず、イクメンのように母性があるように振る舞うのは無理があるし、かえってすれ違いを生むこともある。それを夫婦共に認識したうえで、育児に向き合わなければならない。



父親はどう生きるべきか

現在の世の中で、男は父親として役割がないのだろうか?いや、それはあり得ない。今述べてきたことは主に育児の初期段階に起こる問題である。

チンパンジーのオスの子どもは成長すると大人のオスの群れに加わろうとする。ヒトの子も父親を見て成長する。自分の趣味や仕事に過度に没頭しなければ、自分が築いてきたものを子供の成長に還元することができるはずだ。そして何より、母親も最終的にはそれを望んでいる。

育児の初期形態こそ歪な形となっている現在でも、子が大きくなれば、本来あるべき育児の形を辿ることができる。

だがそれも初期段階でつまづいていては辿り着けない。だから、育児初期の様々な問題の発生プロセスについて理解に努めなくてはならない。



最後に

冒頭で「育児に協力」という表現を使ったが、これは男性特有の理性的な表現であり、これを聞くだけでイラッとする女性もいるはずだ。本来女性にとって育児は協力してもらうものではなく、やって当たり前。頭で考える前に行動に出ているのが普通なのだから。

まあ、とはいえ男は理性でしか思考できないので、そうするしかない。頭の回転を早くすればなんとか女性に追いつけるかもしれない…。

しかし、育児の初期段階では男は役立たずでも、大きくなれば成長を促す役割がある。

ちなみ余談ではあるが、僕の妻は四人姉妹という典型的な女性の共同体で育っており、かなり母性本能が強いというか、良い意味で女の野生が強い性格だ。だから僕もここまで深く考えることができたのだと思う。

これから子育てに直面する、もしく子を育て始めた山男はこれらをよく理解すれば、家庭の円満に近づけるかもしれない。しかし、多かれ少なかれ衝突は避けられない。どこを妥協しどこを妥協しないかは個人の自由だし、夫婦の自由だ。

全ての育児家庭に幸多からんことを。



おわり
2020年3月10日

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