一人で登山をする人は複数人で山を登ることに抵抗がある人もいるようだ。気を使ったり、ペースを合わせたり…。でもそもそも単独と複数、分けられているのにはもっと根本的な理由があると思うんだ。
※11月14日補足:単独でも何人ででも無事なら何でもOKという前提で話をしているので誤解の無きよう…。
単独行は気楽?複数は疲れる?
単独で登山をよくする人、特に単独行から登山を始めた人は、複数で登山をすることに抵抗感を持つ人もいるようだ。なぜなのか。
単独では自由に休憩できたり、ペース配分を変えたり、または写真撮影をしたりと、同行者の気を使わずに行動できる…というのが単独愛好者の意見である。
それはまさにその通りだと僕も思う。この人に縛られないで山を歩けるという開放感は何物にも代えがたい。
だが、この論理で言ってしまうと、パーティを組んでの複数人登山は、気疲れの多い、窮屈な登山ということになってしまう。じゃあ山を真に楽しむには単独行しかないの?って話になりかねないけど、僕はそうじゃないと思う。
目的を達成する手段としての構成人数
そもそも、単独に対しての複数とは、単に数が多いのではなく、パーティを組むといことだ。
僕が思うに、単独とパーティ、二つの登山の仕方が存在しているのは、目的を達成するために単独のほうが効率的か、複数のほうが効率的かというところに尽きる。
ここで言う「目的」だが、アルパインクライミングや高所登山であっても、普通のハイキングであっても、共通のものがあると思う。それは無事に下山できることだ。先鋭的な登山にせよ、命を捨てることを計画に入れる人はいないだろう。
登頂を果たし、あるいは縦走を果たして無事に下山するために、独りのほうがいいのか二人以上のほうがいいのか…ということだ。そのために構成人数をいじるだけだ。リラックスとか写真撮影のためとかは本質的な目的にはならない。
複数で登山をする合理的理由
一般的な話をすると、二人以上のほうが遭難時のリスクが下がる。一人だとにっちもさっちもいかない状態でも二人で協力してなんとかなるかもしれない。また、長期の縦走などもテントや食料、燃料等は分担すればするほど楽になる。しかしこれはパーティを組むという合理的役割分担がなされた集団においてであり、烏合の衆ではその限りではないが…。
あと、初心者の頃なら誰しも思ったはずだが、いきなり一人で登るのは不安だ。登山に限らず何かを始めるには経験者と共に始めたほうが慣れるのが早い。登山だってそのほうが危険が少なく、経験者から実地で色々学べるので合理的である。
ただし、近年は装備が圧倒的に軽くなり、複数で分けて持つ必要がなくなってきた。荷物分担と共に役割分担も解消され、大人数のパーティを組む必然性も無くなってきた。安全面からも単独のスピード感が重要視され、高所登山でもアルパインスタイルでの登頂が目立つ。
この装備軽量化の流れは日本の縦走登山にも影響し、単独でも楽に山に行けるようになっている。
「グループ登山」はパーティ登山ではない
一方、パーティではなく本当に単純に複数で行く登山もある。昨今はそれをグループ登山と言って、仲間でワイワイすること自体が目的の登山だと、僕は認識している。
あれは本来のパーティ登山とは異なる。グループ登山は単独行の人の集まりだ。そういう人たちがコミュニケーションをとる目的で集まっているように思える。
僕も学生の頃はサークルで集まってパーティを組んで登山をしていた。しかしそこには前述のように合理的目的があり、そこに集った仲間だった。しかし僕も現在ではそういう仲間と単にコミュニケーションをとるために登ることもしばしばある。いわゆるグループ登山だ。
単独、パーティ、グループそれぞの良さ
単独で登山を始め、独学でやってきた人にとってはグループ登山とパーティ登山がごっちゃになっているため、「なぜ複数で登るのだろうか(コミュニケーションが煩わしい)」と思ってしまうのではないだろうか?
単独行のメリットを念頭に置いてグループ登山やパーティ登山を見るとその良さはわからないかもしれない。しかし逆にパーティ登山から見ると単独行はリスクがあるように見える。それぞれに良さと欠点があるのだ。
その辺の違いを理解すると、単独行、パーティ登山、グループ登山それぞれの良さが認識できるかもしれない。
コメント
コメント一覧 (5)
効率一辺倒の日常から離れて、効率とは関係なく、自分の思うように山で行動する。たとえ単独が非効率だったり、遭難のリスクが高くなったりしたとしても、各人が納得してヤってりゃそれでいいのかなと。
コメントありがとうございます。
僕の書き方が悪かったので誤解を与えてしまったようです。申し訳ありません。
ここでは「山に入る理由」としての写真やリラックスについて書いているのではなく、本質的な「目的」としてまず何が優先されるのか?ということを書いたつもりです。
ここでいう「本質的」とは最も大事なこと、前提条件のようなものです。まずその捉え方に違いがあったようで、説明不足でした。
僕は「本質的」目的は「生きて帰ること」だと思っています。理由としては「写真撮影」で山に入っても、本質的な「目的」としては「命を守ること」が最優先であり、写真はその次だというということです。
誤解を与えてしまいすみません。ここに補足しておきます。
さらに補足させていただくと、僕は単独は否定していません。効率性を求めて=生存可能性を高めるために単独のほうがいいこともあると思うからです。
単独のみならず、あらゆる登山スタイルも僕は否定しません。このブログに書いたことは僕はこうしているという僕のスタイルの表明です。参考にしたい人はすればいいし、そうでない人はしなくていいのです。他人に対して「こうあるべきだからこうしろ」というメッセージではありません。
だから各人が納得してやっていれば、それに対して何も言うことはありません。
ワークマンのインプレ含め 今後の記事を楽しみにしております。
記事の趣旨はまさにその通りなんです。ご理解いただき光栄です。
僕も単独を否定するつもりは無いんですが、比較するとどうしても優劣のようになってしまい、自信の文章表現のいたらなさを反省しております。
突っ込みも大歓迎です。些細なものでも、僕が見逃したり、甘い表現をしてしまった部分を考え直すよい機会となりますので…。
ワークマンのインプレ含め、今後とも見守って下されば幸甚でございます…。