なぜ人は山に登るのか?それは楽しいからであり、幸せを感じるからだ。なぜ幸せかというと、登山は「今この時に集中すること」が出来る行為であり、それは仏教や哲学で言われる「幸福観」と似ているのだ。



ネットラジオを聴いてふと思ったこと

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最近、こちらの「インテリ理屈ラジオ」というYouTube(ポッドキャスト)を聴いていて、ふと思ったことを書いてみる。


この回では前半に「幸福」について議論がなされているのだが、ブロガーの骨しゃぶりさんが「幸福」を定量化することは難しいと前置きをしつつも、「今に集中しているとき」は幸せを感じると仰っていて、非常に面白いなと思った。それで、これ登山でも言えるんじゃね?と思い、ちょっと考えてみた。

登山を趣味としている人が山に登る理由は間違いなく楽しいからであり、もっと言えばそれは「幸福」を感じるからである。この幸せは一体なんなのか?という問いについて説明できそうな気がしてきた。

「今現在に集中する」ということは、「過去を後悔しない」「未来を案じない」ということであり、それこそが、幸せということだ。言われてみれば過去の失敗を振り返るときや、未来を不安に思うときはとてもじゃないが幸せとは言えない。幸せは「今現在」の中にしかないというのはなんとなく直感的にわかる。



仏教思想やアリストテレスにも通じる?

このラジオ内では、これは仏教の教えやアリストテレスの考えにも通ずるものだと論じられる。

ちょいと調べると仏教、つまり釈迦の教えは「無常」を受け入れること、無常を理解すれば幸福を得られるとしているらしい。無常を理解するには過去や未来に縛られず、今を強く認識することだそうだ。

アリストテレスは「将来の目的を最優先にした行為」を「キーネーシス的行為」と呼び、「今この瞬間に集中する行為」を「エネルゲイア的行為」と呼んでおり、エネルゲイア的行為の方が真の快楽(幸せ)であるとしている。エネルゲイア的行為のほうが、行為自体が「楽しむ」という目的を達成しているからである。

そこで、登山ってかなり「今に集中する行為」であり、それは人が一番普遍的に幸せを感じる行為であるが故に、人は登山にハマるのではないかと思った次第。

これは自分で考察していて、とても興味深いなと思ったし、「なぜ人は山に登るのか?」の問いに一番シンプルかつ的確に答えられているような気がする。



登山を趣味とする人は知的な人が多い

これは僕の個人的観測だが、そもそも登山を趣味としている人は普段の生活で知的な生産能力が高い人が多い。知性が高い故に日常で先のことや過去のことをアレコレ検証し、考え過ぎている状況が多いのではないだろうか。それが「今に集中」することを妨げている。

これまた偏見が入ってしまうが、逆に知性が低い人はあまり登山に向いてないと感じていて、これは普段からエネルゲイア的な行為ができているからだと思っている。つまり、知性が低いが故に、物事を深く先まで考えずにいられるので、常に「今を生きる」を実践できてしまっているということ。結果的に日常の幸福度がわりと高く、わざわざ山なんかにいく必要は無いのだ。これについては冒頭紹介した「インテリ理屈ラジオ」内でいわゆる「マイルドヤンキー」は皆幸せそうであると語られていた。これにはかなり頷いた。

普段からアレコレ考えている癖がついてしまっている人にとって、「今に集中」できる登山のような行為が必要なのかもしれない。登山には「今に集中」できる要素が多い。二つ挙げてみると、ひとつは物理的に人が暮らす現実世界から離れていること。これによって人は昨日の仕事の失敗とか明日の仕事や将来の不安からだいぶ遠ざかる。もうひとつは、「大自然」という絶大的な障害や景色が常に立ち塞がり、自ずとそれに対処することに没頭してしまうということ。下手すれば死ぬかもしれない環境では、将来の不安はあまり気にならない。


登山は禅行か

これは仏教の禅や瞑想の境地に近いのかもしれない。現在の己の肉体との対話のみに集中することで雑念を無くしていくという手法だ。禅を組んで雑念をなくすことができれば大したものなのだろうけど、凡人にはなかなか難しそうだ。それを半ば強制的に行えるのが登山だと思う。

アリストテレスのエネルゲイア的行為で説明をすれば、登山は山に登ること自体が目的であり、それ以外に将来のための打算的な要素は無い。その行為に集中すること自体で目的を達成しているという状態であり、それは幸せだと言える。

これに気付いてしまうと、正直言って登山で良い景色が見れるというのはかなりオマケ要素だ。良い景色が見たいからという理由で登るのであれば、ロープウェイ利用だけでもいいわけだし、展望が無い山でも楽しい理由の説明がつかない。

登山では登っている最中、多少過去のことや、未来のことを考えることもある。しかし大半の時間は「無」というか、過去未来のことはどうでもよくなって完全に頭の中から出て行ってしまっている時間がある。今、その瞬間の足元の岩の形を見たり、木の根に気をつけたり、花が綺麗だなと思ったり、雲が美しいなと思ったりするだけの時間が続くのだ。これが、これこそが人間が絶対的、普遍的な「幸福」を感じられる瞬間なのではないだろうか。釈迦やアリストテレスが意識的に考えたことが、無意識に、擬似的に行える環境、それが登山なのではないだろうか。



登山以外で「禅」的な行為はあるのか

ここで、あえて登山以外にもそういう行為がないかどうか検証してみる。たとえばランニングはどうだろう。ランニングもかなり良い線を行っているのだが、いくつか問題がある。ランニングは「禅」に近い。実際「歩き禅」なんてものもあって、身体を動かし続けることで座っている禅より集中できそうだ。しかし歩いたり走ったりしていても、やがて身体が疲労に慣れてくるし、街中だと色々な情報が目の前に飛び込んでくるため、雑念が生じやすいというデメリットがある。

水泳もいいかもしれない。目に飛び込むものはほとんどなく、水の音のみと心拍のみでかなり内なる世界に閉じ籠れるので雑念が生じにくそう。僕は泳げない人なので完全にイメージだけだが。

雑念を消すには苦行とまでは言わないが、目の前のことに一生懸命になるくらいの「障害」や「発見」が必要で、それが山にはある。



雑念を消すにはある程度の「苦行」が有効という説

「苦行」といえば修験道的な山岳修行もある。これは結局のところ登山がエスカレートした結果であろう。今言ったようにその人にとって「目の前のことに一生懸命になれる程度の障害」が無いと人は無の境地に入りにくい。体力的に余裕があったり、山を歩くのに慣れてしまうと、雑念を考える余裕が生まれてしまうため、そういう人は難易度をグレードアップさせないといけない。

仮説だが、その結果として山伏修行が生まれたのではないか?と考えた。それで、同じ理由でアルパインクライミングや高所登山、つまり、より困難な登山が誕生し、それに取り憑かれる人たちが現れたのではないか?とも考えられる。人がよりスリルのある山行を求めるのは、より没入感というか、「今に集中してる」という感覚を強く味わいたいという思いからなのではないか。

ここまで考えて、舞台は山じゃない自然、例えば「海」じゃだめなのか?とも思ったが、海だとあまりにも人間の手に負えないので何かに没頭して達成するという行為がやりにくい。どんな超人でも泳いで太平洋は渡れないし、課題設定が極めて難しい。先程水泳を例に出したが、それはプールのでの話だ。その点登山はあらゆる体力の人に対して、それぞれに合った課題を与えてくれる。



山に登らずして「幸福感」を得る方法があるなら、山は必要ないかもしれない

登山は悩める現代人に禅行的な「擬似悟り」体験を与えてくれて、一時的ではあるが真の「幸福」を見せてくれる場所なのかもしれない。これは現実逃避といえば、そうなのだが、この場合の現実とは「未来」のことである。仏教にしてもアリストテレスにしても、そして松岡修造だって「未来のことは考えちゃダメ」と言っているので、そういう哲人賢人たちが言うところの「悟り」や「幸福」とはある意味での現実逃避を永続的にやっている状態なのかもしれない。

しつこいが、ここでまた疑問が。現実逃避の心持ちを得ることが幸せであり、それを求めて山に登るのであれば、登山の場以外でその心持ちを、禅などの修練によって習得してしまえば、つまりマイルドヤンキー的な精神を手に入れれば山に行く必要はなくなるのかもしれない。

井上雄彦『バガボンド』でも主人公宮本武蔵が柳生石と対峙して「無刀」と境地に触れている。剣を極めたとして、勝つべくして勝つのならば、始めから勝負の必要が無く、そうしたら剣は要らないのでは?というやつだ。なので、山も極めてしまえば山はいらないのでは?という極論に達しそうになる。どれほどの修練が必要か知らないが、山に行かずとも心を山に置いておけるようになれば、始めから山に行く必要はなく、幸せを得ている状態なのではないだろうか。

長々と書いたが、もちろんこれは僕の主観的な登山論である。「登山の楽しみはそんなことで説明はできない!」と思う人もいるだろう。すごく打算的に登っている人もいるかもしれない。それはそれで良いと思うし否定しないことを断っておく。(ちなみに僕は一度打算的行為として、動画撮影をしながら登ったのだが、結構苦痛だった。)



おわり
2020年6月5日

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