登山は反社会的行為なのだろうか。僕は登山の動機そのものは「反社会的行為」だと思うが、行為の結果としては、実際に「反社会性」を発揮している登山者はほとんどいないと思う。実際は、登山者のほとんどが登山を取り巻く経済的構造に取り込まれ、生産的な役割を持っていると言える。そういう意味では、現在の日本では登山者は総じて社会的存在であり、登山も社会的な行為と言えるのではないか。






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登山者は「社会的存在」か

登山は世間から「反社会的行為」と呼ばれることがたまにある。特に遭難事故が起きてYahooニュースなんかに登場するとヤフコメには「登山するやつはバカだ、税金泥棒だ、人に迷惑をかけるな!」という「人に迷惑をかけるなおじさん」が沢山湧いてきて、地獄の様相となる。そして皆口をそろえて登山は反社会的だと言われる。そういうおじさんは当ブログのコメント欄にも登場したことがある。(注:便宜上おじさんと呼んでいるが本当にそういう人が中高年男性かどうかは不明)

僕としてはこの批判は、半分合ってるが半分間違っている。

登山はある側面では社会的行為なので、その点ではこの批判は間違っている。しかし動機そのものは反社会的側面があり、特にクライミングとかは体制に対する「カウンターカルチャー」なのだ。その点では正しい指摘だ。

ここで「社会的」の定義付けをしておきたい。この定義が曖昧だと前提があやふやとなり、議論にならないからだ。Wikipediaを見てみると「社会的」という言葉はかなり曖昧な意味合いで使われており、人間関係を構築する上での人間の特性のようなものである。これではちょっと登山が社会的かどうかよくわからないので「社会的存在」という言葉を調べてみる。すると
社会的存在(しゃかいてきそんざい)とは社会学用語の一つ。これは史的唯物論の立場によって定められている概念であり、社会と関わっているということは生産関係から構成される経済的構造に組み込まれているということであり、このような概念においての社会を構成している存在の総体のことを言う。この概念ならば人間というのは労働者などという形で生産活動を行ったり、消費者などという形で消費活動を行っているというのが社会参加であるということであるから、人間というのは社会的存在であるということになる。
とある。これがいわゆる登山が反社会的だと言われる論拠のように思われる。登山が人から批判を浴びるときの一番の怒りポイントは人に迷惑をかける所であり、具体的に言えば「救助による税金の無駄遣い」だからであろう。

この税金の無駄遣いが非常に非生産的であり、経済的構造のなかで無駄な行為どころか、マイナスの消費活動となる。その結果として「登山者は社会的存在」ではないとなり、登山は「反社会的行為」と受け取られる構造が見て取れる。



コロナ禍での登山界隈の動き

昨今の新型コロナウイルス騒動で、登山の自粛の是非が問われたとき、Twitterのなかでは「登山自粛論者」とそれに異を唱える人たちで分かれた。分かれたと言っても単純な二分ではなかったが、おおまかには分かれていたように見えた。最初に断っておくが、ここでは「登山という行為はコロナウイルス感染リスクが高いのかどうか」の議論はあえてしない。

登山自粛論者にはガイドや山小屋経営、その他登山関連の事業に携わる人が多く、反自粛論者はどっちかというと野良の山ヤ、少し「アウトロー」な人々というのが僕の印象。だいたい間違ってはいないと思う。

どうしてこういう溝が生まれたかというと、登山の社会性についてに話が戻るわけだ。登山という行為を「生産活動から構成される経済的構造」の中に組み込まれたものとして見る者は、一般社会がそうしているように、登山も例外なく「自粛」すべきだ!と唱える。

一方、そうは思わない人たち、登山は「経済的活動」から解き放たれた行為だと思う人たちは、「なぜ登山に行くべきか行かざるべきかを他人に決められなければならないのだ」と考える。

この考え方の違いによって、コロナ騒動によるTwitter山クラスタ上のちょっとした論争があったと、ぼくは考察する。

じゃあ実際のところ登山は「経済的構造」の中に組み込まれているのか?いないのか?という問題について僕の考えを述べる。僕は「登山業界」としては経済的構造の中にあるが、「登山」そのものの動機は経済的構造の外にあると考えている。

山小屋とかガイドとか山で飯を食う人は当然、経済的活動として経営や運営を行なっており、「登山者」はそれを構成するための大事な一部分だ。他にも「環境保全」「山小屋の維持問題」など、全部社会的、つまり経済的枠組みの中にある。だから「登山者」には社会性を持って行動してもらわないと自身の経済活動に支障が出るし、登山者には社会的な動機で山に登って欲しい。仮にルール違反者からお金を得るということになってしまうと、それはヤクザと一緒になってしまうので、そこは守ってもらわないと具合が悪い。だから登山自粛をお願いするのは当然なのだ。

ツアー登山や誰かに管理された登山に参加する人は上記のそれかもしれないが、そうでない野良の登山者は経済的活動とは無縁と考えており、経済に組み込まれることを良しとしない輩も少ないながら存在する。バリエーションルートを歩いたり山小屋を全く利用しなかったりする者は特にそういう傾向があるように思う。実は僕はその思想は実に共感できる。こういう人たちは純粋に「山に登りたい」という欲求に突き動かされて山に登っていて、その姿勢はとてもカッコよく見える。



ケニア山は純粋な登山欲求で登られた

『登山の誕生』という本に僕の好きなエピソードが載っていて、それはケニア山初登頂のエピソードだ。


ケニア山のレナナ峰(4985m)は第二次世界大戦中、イギリス軍の捕虜になっていたイタリア兵によって初登頂がなされた。彼らは毎日房の窓からケニア山を見ているうちに登りたくて仕方がなくなり、獄中でありながら物資等の準備をして、なんと脱獄!そして登山をして登頂を果たした。脱獄したくせにその後脱走することなく房に戻ってイギリス軍から罰を受けたというのだから彼らの山への熱意は甚だしい。きっと戦争とか自由とか全くどうでもいいくらい、登りたくなったのだろう。彼らこそが純粋なる登山者だと僕は思う。

このイタリア兵の登山衝動こそが登山という行為が経済的構造の外にあると言わしめている。自分の利益を度外視してでも山に登った。ここまで自分の主張を押し通せるような人なら、コロナ騒動だろうが何だろうが関係なく山に入るだろう。

この姿勢に憧れる登山者は僕だけではないはずだ。しかしこの姿勢はカッコいいが、実際真似できるものではない。少なくとも僕は無理だ。社会に思いっきりカウンターをかまして、堂々と振る舞うには普通はかなりの度胸が必要だ。山を登っている最中のひと時は、こっそりと自分を経済的構造の外に置くことは可能かもしれないが、常にそう振る舞うのは難しい。僕は社会的に批判を浴びるような登山はしたくない。

しかし、なぜ山に登るのか?という問いに対して、間違いなくこの脱走イタリア兵と我々の動機は近いのである。それは経済的枠組み、社会から解き放たれたいという願望だ。


だから、一般登山者も登山の動機は反社会的と言える。しかし行為となると別だ。果たして一体どれだけの人がイタリア兵のような反社会的登山を実践できているのだろうか?



反社会的になりたいけどなかなかなれない登山者たち

ほとんどの登山者は思想としてケニア山に登ったイタリア兵に憧れつつ、その気持ちはなぞらえつつも、自分の登山が経済的枠組みの中に足を突っ込んでおり、社会的な存在となってしまっているのが実情ではないだろうか?積極的に新しい登山用品を使ったり、山小屋を利用したり、商業的登山消費者となっているのではないだろうか?

口先だけでない「カウンターカルチャー」としての登山を体現できている人がどれほどいるだろうか?

最初に言ったように、登山は行為そのものは反社会的行為である。そしてその動機もそうである。しかし現代日本ではその登山行為の結果としては、社会的枠組みに入ってしまう。

現代日本でイタリア兵のような行為まで反社会的な登山を実行する人は、世界遺産・那智の滝に登った佐藤裕介氏らくらいではないだろうか。(『外道クライマー』参照)


そういう人にとっては、登山は社会の枠組みから外れた行為なので誰かに何を言われる筋合いは無いと言えるが、そのレベルでなければ、所詮経済的構造に埋没した平凡な登山者消費者なのではないだろうか。



動機は反社会的でも行為は結果として社会的

話を冒頭に戻そう。登山の動機自体は一般登山者も脱獄イタリア兵や、外道クライマーと同様に、とても非生産的だ。なのでヤフコメでの「バカだ」という意見はある意味正しい。そういう人から見たら、高層ビルに命綱無しで登る人も登山者も変わらないだろうし、それもある意味正解だ。少なくとも救助隊が出動したするときに、救助隊の意識は本質的に違いはない。山では救助隊の人も山が好きな人がいるから「同情」があるだけで、困っている市民を助ける姿勢には変わりはない。

その点で言うと、登山は神聖で、紳士のスポーツみたいな意見のほうが間違っている。登山の快楽の本質は自分を社会の外に置くことであり、アウトローであり、紳士とか、品行方正とかとは真逆なのだから。むしろ動機としては高層ビルに登る人の気持ちに近いとすら言える。

では我々はヤフコメのおじさんになんと反論をすれば良いのかというと、「動機はどうであれ、登山は経済を動かしているのだから、少なくとも人に迷惑をかけるだけの行為ではないですよ」ということだ。この辺が「高層ビルや橋桁に登ってしまう人」と登山者を区別できるポイントだ。前者を対象にしたビジネスはないが、後者はビジネスに溢れている。登山を中心にした経済圏のなかでは登山者には社会的役割があり、登山者無しでは生産的な活動が生まれない。登山が経済に組み込まれているのならば、登山者は生産的な存在であり、社会的存在なのだ。

それに、今回のコロナ騒動でこれだけ登山自粛論調が高まったということは、多くの登山者は経済的、社会的構造の中にいるという自覚があることの証明ではないか。それこそ、登山には経済を動かす役割があり、登山者は社会的存在であるという証と言える。もちろん、コロナによって脱獄イタリア兵のような人も炙り出されたわけだが、それは一貫した真の登山者なので否定はしない。繰り返すようだがむしろ尊敬する。

だから、ヤフコメのおじさんが、ごくたまに起こる遭難事例を捕まえて、登山者は社会の穀潰しだなどと言うのはちゃんちゃらおかしい。規模こそ小さいながら登山という行為があるからこそ飯が食えている人も沢山いるのだ。

ここまで書いて、ちょっと見方を変えるとこれも論破されかねないことに気づいた。

動機そのものが非生産的、非経済的で、その登山衝動自体反社会的だとして、その反社会的な純粋な登山衝動を食い物にして登山業界という経済圏が成り立っているという見方をすることもできる。そう見ると、登山業界自体、人の心の内にわき起こる制御不能の欲求を商売のネタにするものであり、まさにパチンコ屋や、カジノ、風俗のようなヤクザな商売とも言えてしまう。そういう論点で登山の「反社会性」を批判されてしまったら、我々登山者はぐうの音も出ないかもしれない。



おわり
2020年6月8日

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