どうも、最近ブログに書くネタが無い者です。今回は登山とインターネット(主にツイッター)について書こうと思います。長文駄文注意。


登山炎上ネタはなぜ炎上するのか

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主にツイッター登山界隈では、とあるツイートが拡散されてツイッターのタイムラインが「議論」みたいになることがたまにある。いわゆる炎上である。

「議題」は色々なケースがあるけど、たとえば「スーツで登山しました」とか、最近だと「アイゼン持ってないオッサンにロープ出してあげました」だとか。こういう話題について、必ず「賛否」が出てきて、「賛」と「否」が衝突する。この手の話はツイッター山クラスタなら見聞きしたことがある人は多いだろう。

僕もツイッターを長くやっているとそういうのは本当に多く見ていて、かく言う僕も便乗して発破かけたり、面白がってネタにしたりしたことは数知れず。でも最近ようやくこの歳になって、ちょっと客観的に自分や周りを見始めると、盛り上がってもあまり楽しくないと思い始め、じゃあなんでこんなに盛り上がるんだろう?と疑問に感じるようになった。



登山にルールが無いから炎上する?

考えた結果、それって「登山」に正式なルールや、行動を制限する法律がないからなのでは?という仮説を立ててみた。統一されたルールや法が無いから各々が信じる「正義」に従って議論するしかないのだ。

登山をしない人からしたら、「じゃあルールを作ればいいじゃないか」という話になるかもしれないが、登山にルールなんてものを作ったらつまらなくて仕方がない。それに、誰かと競うゲームではないのだからルール違反をしても誰も怒ることはないはずだ。

しかし!たまに登山絡みのツイートが炎上したとき、まるで「ルール違反」「マナー違反」をしたかのごとく反応する人がいる。僕もうっかりするとそうなりがち…。登山には万人に効力のあるルールなど存在しないはずなのになぜなのか?



登山に蔓延る「暗黙のルール」

実は登山には「暗黙のルール」のようなものが存在していて、炎上案件に反応する「正義マン」はそれを論拠にしているっぽい。こうした「暗黙のルール」のなかには、装備は何を持っていくとか、山での行動パターンはこうあるべきだとか、色々ある。初心者に対して「山をなめるな」が口癖の人はこう言う小言のレパートリーがすごいんだろな。

しかしこれらに一理あるのも事実。山の先人達が苦労しながら、ときに命を賭して培った教訓なのだ。山に入ってみてようやく、なるほどたしかに「山をなめるなおじさんの言う通りだ」と思うこともあるだろう。



暗黙のルールの陳腐化、登山の多様化

こうした「暗黙のルール」は経験者、部活や山岳会、本などから学ぶことができる。これらの大半は先人の知恵として有用なものではあるが、なかには昔からのしきたりのような陳腐化したものも含まれていて、現在では議論が分かれるようなものもある。たとえば
  • ローカットシューズで登山すべきではない
  • ゴアテックス信仰
  • ファーストエイド、エマージェンシー系の中身の定義
  • 夜間行動は厳禁
  • 単独登山はやめろ

などなど。これらはごく一部だが、理にかなっている部分もある一方、現在は装備や技術の先進化、多様化でかつての常識が変わりつつあるのも確かなのだ。こういう「暗黙のルール」の中でも「さらに曖昧な部分」は人それぞれ捉え方が違うため、正解というものが無く、意見は分かれがちになる。初心者からしたら困惑するかもしれない。

ここが登山のとっつきにくい、やっかいな部分だと思う。サッカーや野球みたいに誰でもわかるルールが存在せず、曖昧さがある故に、初心者(もしくは初心者だと思われた経験者が)「山をなめるな」とか言われたり、ツイッターで叩かれたりするわけだ。



登山には絶対的ルールは作れない

ではルールがあればいいのか?法律で入山制限や装備制限をしてみる?しかし登山に公式ルールを作るとつまらなくなるということはさっき述べた。

そもそも登山の仕方を法律で定めるなど、民主主義の崩壊に等しい。直接誰かに危害を加えていないのに個人の行動の自由を制限するような法律は違憲だ。登山の面白さの一つはこの自由さと言っても過言ではないので、これを制限すると登山が登山ではなくなる。

したがって、登山の性格上、万民共通の公式ルールは存在し得ない。自由の下、各々が信じるルール、マナー、ポリシーを基に行動するしかない。



ネットで深まる意見の対立

インターネットは便利で、多くの情報を瞬時に調べることができる。しかし、情報だけでなく人の思いや感情も沢山集めてしまうことができる。それらが集まると大きな共感も生まれるし、相反する感情が集まればぶつかり合いになる。インターネットは感情の増幅装置だ。ツイッター登山界隈でもそれは例外ではない。

ツイッターをはじめとするインターネット登山界隈では、議論ネタが投下されたとき、たいてい登山の曖昧な部分に関する話が多い。

自分や誰かが被害に遭った事件事故であれば、法律によって何が正しいか判断することができるし、トレイルランニングの大会などのスポーツ大会であれば大会ルールに基づいて議論できるが、そういう話ではない、曖昧な部分だからこそ、議論、炎上するのだ。

そうなると、各人が信じるルール、マナー、ポリシーを基に議論するので、収拾がつかない。結局多数決になってしまったり、正解が出ないまま分かり合えず終わるようなこともある。



正義で人を叩くべからず

これはある意味、宗教のようでもある。どんな宗教を信じようとも、その信仰の自由は認められているが、その教義は宗教によって千差万別だ。そこに正解はない。強いて言えば、それぞれの信仰は皆正しい。イスラム教とキリスト教の神は本来同じはずだが、教義が違いすぎて同化することはあり得ない。キャンパーと沢ヤで焚き火の考え方が違うのと同じようなものかもしれない。僕はどっちも正しいと思っている。

自分では正しいと信じている「正義」に基づいて話している人は、自分の「正義」に当てはまらないとモヤモヤしてしまうのだ。登山をしてない人でも「遭難は悪」と思い込んでいる人ならば、平気で過剰に登山者バッシングをする。

というかこれは登山に限らずあらゆることに当てはまる。ポリコレ棒の類と同じだ。インターネット上ではこれらの感情は過熱しやすく、正義を振りかざして人を攻撃するに至ってしまう。それはよろしくない。



正義など無いのだから

結局何が言いたいかというと、正義や正解なんて初めからなんて無いんだから、あーだこーだ言っても仕方ないなぁということ。だから最近僕は「こういう意見もあるのか」と全て受け入れることにしている。

正解が出るときがあるとしたらそれは法律に違反したときで、誰かが被害に遭うような事故についてだろう。それでも当事者以外が結果についてとやかく言うのも無意味である。ましてや誰も被害に遭ってない事柄について、あたかも罪を断罪するかのように「これはダメだ」とか「正しい」と議論するのはますます滑稽な話だ。自分が何かされたわけではないのに、怒る必要はないと思う。

宗教だって、何か犯罪を企てたりしなければどんな信仰にも自由がある。偏見でヘイトをしてはいけないように、登山者にだって偏見でヘイトするのはよくない。チャラいとか、軽装だとか。トレラン叩きもよくないぞ。トレランのハイカー見下しも然り。

とは言え、人間好き嫌いはある。そういうときは気が合わなさそうな人とは絡まないようにすればいいだけ。ツイッターならミュートなりなんなり色んな機能がある。

と、ここまで書いてしまったが、この内容も好き嫌いがあると思うし、余計なことと言えばそうなのである。インターネットでのコミュニケーションはうまくいかないものだ。



おわり
2021年7月14日

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