最近の僕の山についてのぼやきです。個人の感想です。
最近、僕は登山をしたいという欲が目に見えて減っている。別に山が嫌いになったわけではないし、山に行けば楽しいし、心が晴れやかになるのは間違いない。でもそれはかつてのような「山」ではなくなっているのは間違いない。
かつてのような「山」とは、僕がもっと昔に行っていた山だ。昔とは結婚する前、独身の二十代前半から半ばくらいの山だ。その頃の僕が山に向かうためのエネルギーのなかには、山が好きという気持ちの他に、社会に対する鬱屈とした負のエネルギーがあったことは否めない。満たされない何かをぶつけるために、より高く、(もちろん自分のレベルにとっては)危険で、過酷な山に行こうとしていたように思う。
しかし今や結婚して子供がいると、そういう感情が薄れていっているのか、「なんとしても山へ行こう」という気にならなくなってきた。わざわざ時間と労力をかけて雪山の頂を踏む面倒くささのほうが優ってしまっている。そういう登山をするのが面倒くさくなってきている。
山に行けば気持ちいいのは間違いない。だから、かくいう僕も一応高頻度で山に入っているが、全くたいそうな登山じゃない。山の近くに移住して家から歩いて(走って)1,000m級の低山にアプローチできるので、そこにちょっと登っているだけだ。
だからこそ気づいたことがある。山の気持ちよさは、何も時間と労力をかけずとも、低山を1時間歩くだけで十分得られてしまうということに。それで十分満足できてしまうから、それでいいかなとなっている自分がいる。
幸か不幸か、僕はこの二分野にほとんど手を出していない。沢歩き程度は嗜んだが、山スキーなんてもってのほかである。技術を手にする機会を得なかったのが直接の理由だが、それ以前にこれらに危険性を感じてしまい尻込みしてしまったのも事実だ。罷り間違って僕が若い頃に山スキーや沢に足を両足突っ込んでいたら、今どうなっていただろうか。いや、もともと突っ込めない人種だったのだろう。
さらにこれも僕の想像だが、「真の山好き」であることと「社会への鬱屈としたエネルギー」の両方を極めて山への原動力にする人もいるだろう。イメージでは小説(漫画)『神々の山嶺』の羽生丈二みたいな人物。とはいえ、実社会で成功している登山家は「真の山好き」であることだけを極限まで高めているタイプのほうが多そうだ。山野井泰史さんなどは良い例な気がする。繰り返すがこれは全く僕の勝手なイメージである。
自分が今一番楽しいと思えることに全力を出す。それが単に家の窓から山を眺めることであってもだ。幸いなことに今の我が家からは八ヶ岳を北側から眺めることができる。ヤマテン(山の天気予報)のライブ映像いらずだ。週末にどこに行くでもなく、朝ボケッと寝巻きのままで「八ヶ岳は今日は雲かかってるなぁ。登っている人いるのかなぁ」なんて眺めるのも僕にとってはかなり楽しいのである。
最近、登山に行くのが面倒くさくなってきた
最近、僕は登山をしたいという欲が目に見えて減っている。別に山が嫌いになったわけではないし、山に行けば楽しいし、心が晴れやかになるのは間違いない。でもそれはかつてのような「山」ではなくなっているのは間違いない。
かつてのような「山」とは、僕がもっと昔に行っていた山だ。昔とは結婚する前、独身の二十代前半から半ばくらいの山だ。その頃の僕が山に向かうためのエネルギーのなかには、山が好きという気持ちの他に、社会に対する鬱屈とした負のエネルギーがあったことは否めない。満たされない何かをぶつけるために、より高く、(もちろん自分のレベルにとっては)危険で、過酷な山に行こうとしていたように思う。
しかし今や結婚して子供がいると、そういう感情が薄れていっているのか、「なんとしても山へ行こう」という気にならなくなってきた。わざわざ時間と労力をかけて雪山の頂を踏む面倒くささのほうが優ってしまっている。そういう登山をするのが面倒くさくなってきている。
低山に入るだけで得られるもの
SNSにいる毎週のように山に向かっている人を見ると、本当に山が好きなのだなと思う。単に行動力があるとも言えるが、どちらもあるのだろう。そういう人と比べたら僕の山に対する熱意の無さを思い知らされる。繰り返すが、別に山を嫌いになったわけではない。山に行けば気持ちいいのは間違いない。だから、かくいう僕も一応高頻度で山に入っているが、全くたいそうな登山じゃない。山の近くに移住して家から歩いて(走って)1,000m級の低山にアプローチできるので、そこにちょっと登っているだけだ。
だからこそ気づいたことがある。山の気持ちよさは、何も時間と労力をかけずとも、低山を1時間歩くだけで十分得られてしまうということに。それで十分満足できてしまうから、それでいいかなとなっている自分がいる。
登山の「一番楽しいところ」
かつて「山の楽しいところだけやってると、山スキーと沢登りだけが残る」という話を聞いたことがある。確かに社会人になっても山に中毒のようにハマっている人のなかには、この二つに徹底している人も少なくない。普通の登山とは違う、快楽というものがあるに違いない。あるいは達成感や「一度は行きたい」と思わせるルートが一般登山以上に沢山あるのだろう。幸か不幸か、僕はこの二分野にほとんど手を出していない。沢歩き程度は嗜んだが、山スキーなんてもってのほかである。技術を手にする機会を得なかったのが直接の理由だが、それ以前にこれらに危険性を感じてしまい尻込みしてしまったのも事実だ。罷り間違って僕が若い頃に山スキーや沢に足を両足突っ込んでいたら、今どうなっていただろうか。いや、もともと突っ込めない人種だったのだろう。
「真の山好き」とは
僕が思う「真の山好き」はこういうときに臆せず足を突っ込める人間なのだと思う。気づいたら身体が勝手に動いたり、山に行く行為があまりにも自然にできる人のことだ。だからそういう意味では僕は「真の山好き」とは根本的にいる場所が違うと思っている。さらにこれも僕の想像だが、「真の山好き」であることと「社会への鬱屈としたエネルギー」の両方を極めて山への原動力にする人もいるだろう。イメージでは小説(漫画)『神々の山嶺』の羽生丈二みたいな人物。とはいえ、実社会で成功している登山家は「真の山好き」であることだけを極限まで高めているタイプのほうが多そうだ。山野井泰史さんなどは良い例な気がする。繰り返すがこれは全く僕の勝手なイメージである。
SNSで揺らぐ自分の「登山アイデンティティ」
SNSでは色々な情報が交錯し、それは一口に「登山」と言っても様々な嗜好と動機があることを知らされる。日々それらを見ていると自分の「登山アイデンティティ」のようなものを揺さぶられたような感じに陥ってしまう。自分も登山好きを自称しているのだからもっと山に行くべきなのでは?という義務感のようなものが、ふと湧きそうなことすらある(もちろんそんなものは幻想だ)。これこそがSNSの悪いところで、他者に影響されて自分を見失ってはいけない。とはいえ、何かモヤモヤしていた。結局、自分の中で楽しいことをやればいいだけ
そんなモヤモヤのなか、僕は自分はそんなに山好きじゃないんだと理解してきたし、今それをこうしてちゃんと言語化できたような気がする。まあ、当たり前のことと言えばそうなので、言語化するまでもないのだが。話はシンプルで、人は人、自分は自分のペースで山を楽しめばいいだけなのだ。自分が今一番楽しいと思えることに全力を出す。それが単に家の窓から山を眺めることであってもだ。幸いなことに今の我が家からは八ヶ岳を北側から眺めることができる。ヤマテン(山の天気予報)のライブ映像いらずだ。週末にどこに行くでもなく、朝ボケッと寝巻きのままで「八ヶ岳は今日は雲かかってるなぁ。登っている人いるのかなぁ」なんて眺めるのも僕にとってはかなり楽しいのである。
コメント
コメント一覧 (5)
私は29か30歳頃から沢登りと山スノーボードにハマり、時々ブランクあれど、51歳の今も時々いってます。
特に、負の原動力と言いますか、仕事や家庭のストレスを山に行って解消し、なんとか精神的バランスを保ってた時期もありましたし、また、Twitter、ヤマレコなんかで、「この人らみたいに行きたいなー」なんて思わされた(?!)時期もありました。
が、この5年くらいは、その時、たまたま空いてる時間で、体力の許す、行ける範囲で行く、というところでバランスがとれてきました。当日朝起きれた時間から、天気みて予定かんがえて行く、みたいな。
つまり、それまでは、週末に山に行くとなれば、月曜日〜金曜日までの仕事や仕事を終えた時間の行動も、週末のために最適化されてて、その時のことをふと懐かしく思うこともありますが…
これ、めちゃくちゃ良く分かります。
1週間前から天気予報とにらめっこ、特に冬季は前日まで装備の見直し、当日は普段苦手な激早起きで出発。
行けば楽しいし、達成感あるし、気分転換になるコト知っていますが、、、もっと気楽でいいはずとも思ってしまう。
いつもありがとうございます。
昔はヤンチャだったということですね笑。
僕はまだカマさんのよつなバランスの境地にはいけず、少し周りに振り回されているような気がしますが、すこしづつバランスをとりつつある感じです。
共感いただき感謝です。
手軽なところでいいんだよなっていうところで最近落ち着きつつあります。とは言え年に一度くらいは少し冒険的なところに行きたいですが笑。
周りは周り、自分は自分、って分けられたらバランスとりやすいかもですけど、色々しがらみありますもんねぇ。
お邪魔しました