登山は宗教的だとふと思った。それは修験や山岳仏教を意味するのではなく、登山行為そのものを有り難く思う心が宗教的というか、信仰心に似ているなぁということだ。(個人の感想 約1,900文字)

山岳仏教ではなく…

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日本人が「登山」と「宗教」という組み合わせと聞いてまず思いつくのは山岳仏教や修験道、自然信仰のようなものだと思う。でも僕がここで言いたいことは少し違うわけで。登山をしたいという気持ちと宗教における信仰心の共通点などを言語化したい。

「登山をしたいなぁ」という気持ちは、非合理的で理屈で説明するのがなかなか難しい。景色が美しいからとか、山頂に立ったときに達成感があるからという感想はよく聞くが、それは他の活動でも得られそうなものである。なぜ山でないといけないのか?なぜ山に惹かれるのか。

山で得られる「神聖な気持ち」とは

多分だけど、僕だけなのかもしれないけど、山に登ると少し神聖な気持ちになるからだと思う。僕なんか信仰心はほぼ無いに等しいが、ナントカ教を抜きにしてholyな気分になっている感覚がある。それはおそらく勝手な推測だが神社とか教会で得られるような身が引き締まるような感覚より、もっと原始的な核の部分のような気がする。

宗教の定義

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ここで宗教の定義を確認しよう。広辞苑によると「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」とある。登山者にとっては山がシンプルに超越的で神聖なものであり、そして登山行為そのものが神聖視されているということだろうか。

日本の宗教と山

修験道、山岳仏教においては、登山という行為を儀式として「ツール」のように使っている。それを見ると山に入ることで身を清めより自分の心身を神聖なものに近づけることで仏様に近づくという解釈をしているという印象を受ける。仏教や神道について無頓着な僕ですら、無意識にそういう感覚がわかるのだから、体系化された宗教のなかで山はちゃんと名前や由縁、意義が説明されており、そのように運用されているのも納得だ。

山は宗教と親和性が高い

修験道だけがそような解釈なのではなく、古今東西の宗教でほとんどでおいて、天高い場所というところは限りなく神というか、超越的な存在に近い場所であるという感覚を人類は共通して認識していると思う。誰に教わることがなくとも、天空は決して届かない絶対的な場所なのだということを人は生まれながらにして理解しているような気がする。そこに近づく唯一の行為もやはり尊い。日本では山を数える単位が「座(ざ)」であり、これは神々の座(おわ)す処という意味であることも示唆深い。

世界の宗教の中での山

しかしながら超越的な存在であるということは、ときに神聖なものから邪悪なものに反転して認知される可能性も孕んでいる。キリスト教では山は悪魔が棲む場所として忌み嫌われ、日本でも立山信仰のなかで剱岳は地獄の針の山に形容され、登ってはいけない山とされていた。人類にとってあまりにも登り難い山は超越的であるが故に不可解なものとして認知され、それは畏怖、恐怖の対象となってしまうのだろう。

翻って、神聖なものだという認知が進めばネパール、チベット、ブータンなど高所にある国のようにとても宗教色が色濃くなり、険しい山岳は神々の地として大事にされる。日本もこっちよりというわけだ。仏教にそういう性質があるとも言えるが、里や都市部から山がよく見えるという地形的な要素も共通点だと思う。慣れ親しめば恐怖よりも親しみに傾くのだろう。

宗教が先か、山欲が先か

というわけで「登山をしたいなぁ」という気持ちっていうのは、宗教の垣根を超えたようなところにある原始的な信仰心のようなものがはたらいて、神聖な気持ちになって、世俗から離れ、自分の心が安らぐ感覚を味わいたいという気持ちが少なからず含まれているんじゃなあないのか、と思う。これは今世に広まって名前がついている宗教が現出する以前から人間が持っていた感覚なのかもしれない。この感覚を非常に簡単に言えば、「山が好きだから」となる。

宗教と山で得られる共通の安らぎ

登山とは他者からの評価は全く介入せずに自分自身だけが心安らぐ感覚、自分だけの脳内に快楽物質が出ていることがわかる類のものであり、これが僕の思う宗教との類似点である。他者の利益など無く、自分自身で完結することに心血を注ぐ。これが非常に脳に良い効果をもたらすように思う。

面白いことに、この安らぎを他者に知ってもらうためには同じことをしてもらうしかない。それは必然的に布教活動的なものになるので、まさに宗教と同じムーブになる。

余談だが、登山にこのような宗教的な性質があるとして考えてみると、山の自然保護問題がいつも議論を醸すことに納得がいく。人が山を登ることと山を汚さないことはときに相反するが、人々はそこになんとか答えを見出そうとする。多分人には「これ以上人間が山に介入すると神聖性が薄れる」とか、「世俗的になってしまう」という意識があって、そうなると登山が楽しくなくなってしまう。だからそうならないように議論する。その線引きは人それぞれの、いわば人間に残された「野生のカン」の部分のはたらきなのかもしれない。

そういう人間の、動物的な勘と人間的な思考の境界をなぞるものこそが宗教的な思考であり、そこを限りなく浮き彫りにする事象こそが山に登るという行為なのかもしれない。

こんなことを正月早々、山を駆け下りながらそんなことを考えていた。





おわり
2024年1月19日

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