松永K三蔵氏作『バリ山行』(ばりさんこう)の感想を登山をやっている人間として書いてみた。※多少のネタバレがあるかもしれないので注意。



リアルにマネをしてはいけない山歩きの話

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このブログは冗談で「絶対にマネしてはいけない山歩き。」なんて嘯いているが、この本の低山バリエーション山行こそ、「絶対にマネをしてはいけない山歩き」だ。

だいたいは現実的なサラリーマンの話

話の大筋はほとんど建築業界、それも改修業社界隈の話である。個人的には中小サブコン改修業界あるあるが多くて深く共感。転職、家庭の問題など30代から40代にとっては非常に現実味を帯びた風景が思い浮かべられるシーンが多くあり、家庭の息遣いが間近で聞こえてくるようで時折苦しくなるほどだ。

そうなるとやはり現実からの逃避という行動に人は出たくなる。たまたま主人公の波多はそれが山であった。登山好きな人たちがたまたま職場に多かったからだ。

人生と登山との対比

多分それは登山ではなくても良かったのだと思う。人生と対比できるものであればなんでも。本作ではたまたま登山とであって、しかもさらに妻鹿という稀有な人物に出会い、波多の人生の歯車は狂っていく。かつての僕も人生と登山とをなぞらえつつ、確かなはずの生活の中での不確かさ、不確かなはずの山での中での確かさを覚えていた。そういう感覚も共感できるからこそ、それ以上はだめだという気持ちになる。

不確かな山での「確かさ」を感じる快感。この感覚は単独で登山をやっている人はすんなりと共感する人が多いかもしれない。ありきたりに言えば、死んだような街の生活から離れて山で感じる「生」のリアルな実感。これがたまらない。そして危険だ。

しかし登山をやらない人からすれば、この逃避行動は理解できないかもしれない。古来からある「山に呼ばれる」などという「神隠し」や「蒸発」に繋がるような得体の知れない恐怖感すらある。

妻鹿の人生は既に破綻している?

「バリ山行」を昔から毎週のように行う妻鹿はすでに「山に取り込まれて」おり、彼の人生は(家庭が崩壊するなどして)すでに破綻していたのかもしれない。主人公、波多もまた山に取り憑かれて運命を大きく変えていくのかもしれないと想像すると、おそろしい。

山に取り憑かれるというのが、メジャーな山域やアルプスや岩稜で山男として行われることではなく、超ローカルな里山に単独で人を避けて分け入る「バリ山行」であるところが狂気性を際立たせる。沢登りなど美景を求めるようなレジャーとしてのバリエーション登山ではないのだ。そして僕自身も経験があるが、里山には人里が近いからこその得体の知れない恐怖がある。人の住む場のすぐ近くに未知がありそこで文字通り人知れず死ぬかもしれない。

ハッピーエンドのようなバッドエンド

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読後、波多が妻鹿に山で会えることに期待してしまった読者はすでに山に取り憑かれていて、バリ山行の果てにある「なにもないよ」という場所に誘い込まれているのかもしれない。冷静に判断すれば、社会的な正しさを求めるなら「妻鹿の後を追うな!」と思うのが正常なのではないだろうか。

つまりバリ山行を違法なドラッグに置き換えるとわかりやすいのかもしれない。実際作中でもバリをたびたび「そんなのはアカン」と嗜められている。しかし健全な登山の延長線上で描かれているため、ドラッグのようにその中毒性や致死性に気づきにくい。そう考えると最後のシーンは不気味で不吉極まりないものに思えてならない。

六甲山登山という爽やかな情景を背景に、現実社会での行き詰まりを描き、その中で登場する「バリ山行」はまさに甘美な猛毒のような破綻へ誘いのようなものに感じた。


バリ山行
松永K三蔵
2024-07-25





おわり
2024年8月17日

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